知られざる画家
レッサー・ユリィ
エルサレムのイスラエル博物館が所蔵する絵画が東京で公開され、レッサー・ユリィの作品が注目を集めている。決して知名度が高くなかった画家が、関心を引く理由とは?
ー 安井裕雄(三菱一号館美術館上席学芸員)
レッサー・ユリィ(1861-1931)が生まれたのはプロイセン領のビルンバウム、現在ではポーランド領になっている町である。ユリィは日本ではほとんど知られていなかったが、1890年代から1920年代の4作品が「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」展に出品され、にわかに脚光を浴びている。同展出品作は、ガラス越しの光を受けた女性像と室内を描いた《赤い絨毯》、うっすら白い光をたたえた湖とそのほとりの樹木を描いた《風景》、そして大都会ベルリンの冬の日の通りを描いた《冬のベルリン》、そして秋の終わりの冷たい雨をたたえた街路が、街の明かりを反射する《夜のポツダム広場》である。
1900年頃に描かれた《風景》では、空と水面の反映を大胆に白い色の面で表現しており、印象派の影響を受けながらもすでにその影響を脱していることがわかる。またベルリンのポツダム広場を描いた《夜のポツダム広場》では、濡れたアスファルトが煌々と光を反射しており、建物内の光源よりもはるかに明るい。だが、いずれの作品もどこか暗さを感じさせる。アンニュイな空気が漂う陰りを帯びた表現は、Covid-19の世界的な流行により先行きが見通せない時代に生きる、現代日本人の心に深く染み入るものである。
ユダヤ人の画家ユリィ、その作品がたどった数奇な運命
ユリィはデュッセルドルフ、ブリュッセル、パリ、シュトゥットガルトに遊学した後、ベルリンに乗り込むが、画家としての成功は遅く1922年の個展まで待たなければならない。《夜のポツダム広場》はユリィが遅い成功を手にして間もなく、1926年の個展に出品された。傘を手に交差点を足早に過ぎ行く通行人の目線で、濡れた路面が人工照明を反射するポツダム広場が描かれている。ドームを備えネオンが華やかな右手の建物は、映画館などの娯楽施設が入った「ハウス・ファーターラント」である。ポツダム広場は、鉄道と地下鉄駅を備えた新しい都市交通の中心地であり、文学を含む芸術作品において格好のモティーフであった。
イスラエル博物館の4点のユリィ作品のうち3点は個人からの寄贈作品であるが、《夜のポツダム広場》は1933年にベルリンに創立されたユダヤ博物館に収蔵されていた。ところが、1938年11月10日の同館の強制閉館により他の作品とともに没収され、行方がわからなくなる。だが1945年、旧帝国文化院の地下室で再発見され、ベルリンのユダヤ人返還継承組織を通じて、エルサレムのベツァルエル美術館のコレクションに加えられた後、イスラエル博物館の所蔵となった。
安井裕雄 Hiroo Yasui
三菱一号館美術館上席学芸員。四半世紀を超える美術館勤務の間に、ふたつの美術館の立ち上げを経験。2001-02年『モネ展 睡蓮の世界』を共同監修、2016年『拝啓 ルノワール先生』展を監修。2018年に監修担当した『ルドン ―秘密の花園』展で、公益財団法人西洋美術振興財団の第33回西洋美術振興財団賞 学術賞を受賞。2021年開催の『イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜 ―モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン』を担当。専門はフランス近代美術。