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樹木祭のあと

3

©StateofIsrael

 夕方、帰宅したわたしは、父がエントランスの肘掛け椅子にすわっているのを見た。父は、わたしに笑いかけた。思わずかけよってキスをしたかったが、なぜか足が前に出なかった。父がその肘掛け椅子に腰をおろすのは久しぶりだったので、ふりむいた父の顔をわたしはじっと見つめた。
 その後も、雨はさらに降りつづいた。父は茶色の毛糸のガウンを羽織り、家の中をかなり歩けるようになった。ときおり台所にまで入ってきて腰をかがめ、わたしのノートを覗いたりした。
 こうして、雨は6日間も降り、樹木祭から7日目に太陽がやっと顔を出した。父はわたしたちといっしょに昼の食卓につき、食前の祈りを唱えた。食後、父はベランダに出て腰をおろした。陽がさし、果樹園から甘い香りが風にはこばれてきた。母も父の隣に腰をおろし、ふたりで話しはじめた。もうすぐ、うちの家計がだいぶ楽になるのを知った。近いうちに、父は病院で役職につき、それなりの収入を得られるという。
 わたしは台所で宿題に取り組んでいたが、すぐに退屈して立ち上がった。父の頬は陽に当たってほんのり赤く染まり、目は輝き、その微笑みでわたしの心はたちまち晴れた。
「宿題は終わったのかい?」
「あと、英語の作文がある」
「だったら、ここに来て、終えたらどうだ?」
 わたしは、台所からエントランスに移った。窓がベランダ側に開いていたので、父と母の姿が見えて、ふたりの話し声もよく聞こえた。父は口数が少なく、母もまた、ほとんどだまっていた。しばらく、わたしは英語の作文にしがみついていたが、とつぜん父の耳慣れない声がした。
「具合が悪い」
 はっとしてわたしが立ち上がろうとしたとき、エントランスの扉が開いて父が握りこぶしを唇に当てて腰をかがめ、顔面蒼白で入ってきた。母が父の体を支え、長い廊下を寝室まで付き添ったが、わたしはエントランスで立ち尽くしたままだった。と、とつぜん、廊下の向こうから、母の声がした。
「早く、お医者さんを呼んで!」さきほどの父の閉じた目と蒼白な顔を目の前から追いやって、わたしは庭に走り、自転車に飛び乗ってお医者さんを呼びに行った。医院の玄関を開けたが、とっさに言葉が出なかった。
「はやく」と、言葉がからまり、「早く、父さんが・・・」とだけ言って、そこを後にした。
 家にもどる代わりに、そんなに遠くない丘の上にある林へと自転車をこいだ。林の中にあるベンチに腰をかけて、気もちを落ち着かせ、ふたたび自転車に乗った。家の方に目をやると、お医者さんが庭を横切って家に向かうのが見えた。すぐにかけつけてくれたのだ。家にもどるのが怖くなり、村の通りを宛てもなく自転車で走りまわった。そのうち、また丘の上にある林まで行って、ベンチにすわった。どのくらいそこにいたのか、わからない。家にもどると、父の寝室の扉が閉まっていた。声は聞こえない。台所に入って、テーブルの近くにすわった。
 皿に、パンが数枚のっていた。一枚をとって、口に入れた。しばらくして寝室の扉が開き、お医者さんが出てきた。その後、玄関の扉の音が聞こえた。また少したち、玄関の扉の音がして、母の友人であるとなりの奥さんが台所に入ってきた。
「いったいどうしたの?」
 わたしは答えなかった。
 父の寝室の扉が開き、母が台所口に立った。母はわたしを見て言った。「お父さんは死んだわ」そして、となりの奥さんには、ふたりだけのいつもの話し言葉で、「今はもう、この美しい娘に父はいない」と言い、再びわたしの方を向いた。「さあ一目、お別れをしましょう」
 父の目は閉じていた。顔色は蒼く、ぎこちなく少し微笑んでいた。今までにない、おだやかないい顔をしていた。

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