聖地の偏愛叙情詩 / 下
「聖地の偏愛叙事詩」
著者:Roy Chen
ヘブライ語:“Sado Mazo BeEretz HaKodesh”
英語:S&M In The Holy Land
出典: Maaboret Short Story Project 2017
ヘブライ語からの翻訳:波多野苗子
<著者のことば -サイト掲載に際して>
ぼくはこれまで平和というものを固く信じてきた。こんな血なまぐさい日々ですら、その信念は変わっていない。作家としては、どんなプロットでも変更できると思っている。劇作家としては、衝突をときほぐすのは対話しかないと思っている。翻訳家としては、人は誰しも他者を理解する能力を持ち合わせていると信じている。どんな一片の土地もそこにある石も、決してひとつの命に勝りはしない。この作品は2017年に書かれたものだ。あるユダヤ人とあるパレスチナ人が同じ女性に恋をし、前者は彼女をエラ、後者は彼女をティナと呼ぶ。三者のサディスティックでマゾヒスティックに絡み合った関係性はもつれにもつれて、彼女を昏睡状態へと追い込んでいく。ごくわかりやすいメタファーだと思うが、実際には「愛国心」という「愛」のために民族同士がお互いを傷つけあう状況はいまだ収まる気配はない。ぼくはこの息の詰まる現実を辛辣なパロディにし、あまつさえエロティックに描くことで、なんとか息が吸えると思った。それから7年が経って、閉塞感はますますひどくなるばかりだ。それでも変わらず、ぼくが酸素を取り込む唯一の道は書くことしかない。
この作品に目をとめてくれた翻訳者に感謝する。開かれた目を持ってくださる読者にも。新聞の見出しやニュース番組で見るより、現実はもっと多様で複雑な様相を呈している。それでもぼくは、イスラエルもパレスチナも、いまとは異なる形でこの土地とお互いを愛することができると、心の底から信じている。
作品紹介
2017年に書かれた中編作品。病院でバリスタとして働く主人公の恋人が昏睡状態に陥り、ERに搬送されるところから物語は始まる。一見すると推理小説のようで、いったい誰が彼女をこんな目に合わせたのかという犯人捜しのストーリーが展開するが、全編を通して旧約聖書を含むユダヤ史のアレゴリーに満ちており、日本の読者には多少とっつきにくい部分があるのは否めない。要は、パレスチナの地とそれを巡って争うふたつの民族が男と女の三角関係に擬人化された物語である。物語をできるだけ分かりやすく3つの大きな部分に分けると、アダムとイヴの失楽園から起源70年のローマ帝国による第二神殿崩壊までが第1部、ユダヤ民族の離散からホロコーストまでが第2部、イスラエル建国以降の歴史が第3部という構成になっている。 言うまでもなく、第3部は恋人(土地)を巡るイスラエルとアラブとの争いが主眼になるのだが、最後には著者の独創性あふれる平和的な結末が用意されている。作者のロイ曰く「いまとなっては非常にデリケートなテーマになってしまったが、土地が失われてようやくふたつの民族は自らの愚かさに気づき、協力できたということ」。
一見してイスラエル、パレスチナの双方へ向けた痛烈な風刺に、イスラエル社会の若い世代が辟易しながら抱きつづけてきたジレンマややるせなさがにじみ出た作品だ。一方で、同じ「祖国への愛」の元に傷つけあう双方であっても、異なる形できっと理解し合えるはずだという切実な希望も託されている。メディア報道からはなかなか聴こえて来ない当事者の肉声でもあると訳者は感じている。近々イタリア語での翻訳が出版予定。