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ガブリエルとファニー(プロローグに代えて)

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©navasemel.com

 かつて祖父は、祖母をヨーロッパに置き去りにした。あの時代、そうしたことは悲しむべきことで、人々の耳元でひそひそささやかれ、子どもにはぜったいに聞かせてはいけない話題だった。離婚も、死別と同じように、ぜったいに口にしてはいけなかった。あの時代、だれひとり離婚も死亡もしなかったということだろう。
 祖父は、祖母だけではなく、わずか生後6か月だったわたしの父をも見捨てて、アメリカに移民した。1919年、ヨーロッパの小さなユダヤ人共同体に、ニューヨークには金融街がありそうだという噂が飛び交い、アメリカはイディッシュ語で〈黄金の国〉と呼ばれていた。
 祖父は、暮らしが落ち着いたら渡航切符を送ると約束した。彼はたしかに定住はしたが、渡航切符などは、一度も送ってこなかった。ニューヨークのエリス島にある移民博物館の当時の書類によると、ガブリエル・ヘルツィグはヨーロッパに妻を残したとの申告はあったが、赤ん坊のイツハクについての記載はなかった。一人息子を見捨てたと、移民局から問いつめられるのを恐れたのかもしれない。
 幼かったわたしの父は、ニューヨークの父親から生存の証として、緑色のドル紙幣入りの封書を、誕生日ごとに受け取っていた。ルーマニアのブコヴィナにある小さな町スイレトで、父親の不在を周囲の子どもたちにからかわれていた父は、いっそのこと、実父は死亡してくれた方がずっといいとさえ思っていた。その後、わたしが大人になった時、父はいみじくも「孤児でいる方がよかった」と語り、胸が痛んだ。
 寡婦となった祖母のファニーが、はたして未亡人と呼ばれたいと思ったかどうかはわからない。祖父のガブリエルは、やはり移民だったカルラ・メンデルという別の女性と悪びれもせずに懇意になり、二人はロウアー・イーストサイドの、カルラはクリントン通り、ガブリエルはノーフォーク通りにある別々のアパートに暮らしていた。
 この現代風通い婚の形が、はたして彼女にとっては気楽だったのか、それとも不本意だったのか、わたしにはわからない。どちらにしても、彼らはウディ・アレンとミア・ファロー方式で30年以上も暮らしたのだった。毎朝、祖父は彼女のアパートの部屋に立ち寄ってコーヒーを飲み、その後、ニューヨークの証券取引所に通勤したという。大富豪にはならなかったものの、株売買の相場師になり、彼にとってはまさに新しくエキサイティングな世界を闊歩した。
 ところが、置き去りにされた祖母ファニーは、聖書の戒律と指導を守り、ガブリエル以外の男性とは縁がなかった。彼女の人生で、ただひとりの身近な男性は、息子であるわたしの父で、どこに行くにも頼りきって、その後をついて歩いた。息子は母を、生きる望みのないドニエストル(ルーマニアとウクライナの間にある街)への移送から救い出し、無理矢理シオニストに変身させた。一方、祖父のガブリエルにとって、パレスチナはまったく眼中になく、「来年は、エルサレムで」というユダヤ人同士の挨拶は、単なる常套句にすぎなかった。
 第一次世界大戦中にガブリエルが従軍した4年間も、婚約者としてじっと耐えて待ちつづけた祖母ファニー。復員後、二人は結婚したものの、再び乳飲み子とともに残された彼女は、その息子に愛を注いだ。つまり祖母にとってわたしの父は、ハンサムで魅力的な夫ガブリエルの投影でもあった。「どんなに大量の水をかけても、この愛を消すことはできない」と歌われているように、祖母ファニーの夫への愛と忠誠は、大西洋をものともしなかった。
 もしわたしだったら、自分の人生の枷になった夫に抗い闘って、やつのエゴを少しでも修正するために、わずかでも行動を起こしたであろうが、あの時代の女たちは、これが自分に与えられた運命とばかり、そのまま受け入れた。はたして祖母は、家族がどうあってほしかったのか、今となっては物語の中で、わたしが想像して書くしかない。

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ガブリエルとファニー(プロローグに代えて)

ガブリエルとファニー(プロローグに代えて)

ナヴァ・セメル

著者:

樋口 範子

翻訳:

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