ガブリエルとファニー(プロローグに代えて)
©Itamar Grinberg (Haifa Bay)
1946年、ヨーロッパでのホロコーストを免れた息子イツハクは、若きシオニストの活動家としてパリで行われた青年シオニスト会議にて、ユダヤ系アメリカ新聞の記者インタビューを受けた。ある朝、ひとりのニューヨーカーがコーヒーを飲みながら、ほっと一息ついて新聞を開くと、息子のインタビュー記事が載っていた。ガブリエルは、一人息子がホロコーストを生きのびたことをはじめて知った。ナチによる恐ろしい迫害に、何の救いの手もさしのべなかった後ろめたさに動かされたのか、すぐに新聞社を通じて、息子の居場所を探し出した。パートナーだったカルラが、その息子探しを促したというのは、きっと彼女には子どもがいなかったからにちがいない。
その3年後、エズレル平原にあるキブツでの長男シュロモ(わたしの兄)の割礼式に、家族ははじめて顔を合わせた。祖父は、息子と初孫に会いに、まさに一石二鳥でやってきた。祖母は、ハイファ港へ出迎えに行くことはしなかった。たぶん、ハイファ港で自分の奥深い感情がゆるんで、つぶされそうになるのを恐れたのかもしれない。
別れ別れになっていた祖父母の再会場面についての証言は、手元にはない。ただ、船のタラップを降りてきた祖父と、波止場に立っていた父イツハクの二人は、互いの襟についている名前のタグを合わせて、きちんと名前を確認し合ったということだ。このいきさつをわたしがすべて耳にしたときはもう、祖父母のガブリエルもファニーもこの世にはいなかった。それに、たとえ質問する機会があったとしても、だれも内面を語らないあの時代の彼らが、胸の内を明かしたとは思えない。
そんなわけで、その訪問時のただ一枚のモノクロ写真には、兄の割礼式での祖父がイスラエルの硬い大地にクワを入れる姿と、そばで怪訝そうに見上げる祖母が映っている。妻を見捨てて30年後にやっと、その妻に正式な離縁状を手渡した祖父は、彼女を不安と孤独から解き放った。今や、ファニーは身も心も自由の身になった。これで、この大昔の愛の物語は終わったかのように見えた。
祖父は、建国直後のイスラエルという国には、何の魅力も感じなかったようだ。その国は中東の辺境にあり、近隣諸国の敵意と暴力に囲まれて望みがない。キブツについては、〈共産主義の避難先〉と突き放し、シオニズムにいたっては、奇抜な冒険だと言わんばかりだった。息子である父に向っては、「わしといっしょにアメリカ行くか、わしが再びおまえたちを置いて出て行くかだ」と、言い放った。
父は当然、受け入れなかった。イスラエルにはもちろん金融街はなく、かといって、乳と蜜の流れる地でもないが、父にとってはただひとつの居場所であり、アウシュビッツから生還した母ミミにとっても同じだった。彼らにとって、他の選択肢はなかった。祖父が再びアメリカに渡った直後、父は苗字をヘルツィグからアルツィに変え、家族の枝葉は、より明らかに確かに引き継がれた。
正式な祖母との離婚、二度目の離別から10年後、祖父は突然もどってきた。すでにニューヨークの街角では公然の仲だったカルラ・メンデルは、ガブリエルが、もうすぐ失明するという重い内容の手紙を送ってきた。祖父は、カルラと婚姻関係ではなかったから、彼女は祖父を介護するつもりはなく、その男は今となっては独身のまま見捨てられたも同然であった。〈自業自得〉だと言う人もいるだろう。
失明を予告された祖父を連れに、父がニューヨークに旅立ったとき、わたしは5歳だった。すでに一家の柱で40歳だった父は、ノーフォーク通りにあった祖父のアパートにたどりつき、自らを見捨てた父親と、はじめて膝を突き合わすことになった。今さら無理に関わろうとしてもぎこちなく、二人は疎遠のままだったが、むしろクリントン通りに住むパートナーのカルラと父は、心を通わすことができた。父は、義務を放棄しつづけた男を、当然の報いとして家族の元に返すというカルラの判断に、秘かに同意したのかもしれない。
父の手紙は、ほぼ毎日大西洋を渡って、わたしたちに届けられた。父が他界した今、読み返してみると、毎回「愛する子どもたちへ、わたしはもどるからね」という不確かな約束の言葉で結ばれている。置き去りにされたトラウマがいかに深かったかが、よくわかる。父はその後、大人になったわたしに、自分が子どもたちを見捨てる父親だとは、ぜったいに思われたくなかったと語った。
6か月後、父に連れられた祖父は乗用車プリムスを伴い、どう見てもこの国には不似合いな当時流行の背広に絹のネクタイをつけた外国人姿で帰国し、街中の噂をさらった。20年前に刊行されたわたしの作品『Becoming Gershona』に、「わたしにおじいちゃんがいるなんて、はじめて知った」との一文がある。
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