狭い廊下

©StateofIsrael
わたしね、一生ずっと、あんまり食べるつもりはないの、とわたしは説明した。わたしって、すぐ太っちゃうほうだし、お菓子やおいしいものには目がないから、家にはトマトやピーマンしか置かない。塩だってだめ、健康に悪いでしょ。食べる量が少なければ少ないほど健康で、飲むものもミネラルウォターだけ、とわたしにはわたしなりの理屈があったし、彼にはしょっちゅう手を洗わせた。いっしょにいる間も、どんなばい菌を持ち帰っているかわからないので、あとを追っては消毒薬で拭きまわった。彼には、仕事場でお釣りをよこす数知れない人の息がかかっているし、誰が触ったかわからないようなお札や硬貨を一日じゅういじっているのだ。いろんな汚れが彼にこびりついているようで、わたしは怖かった。最初、彼はわたしのそういう不安を笑い飛ばしていたが、いつの間にかわたしのやり方に染まりだし、消毒剤をもって家のなかを拭いたりこすったりするようになった。週末には、ふたりで浴室とトイレを磨いて過ごした。
それ以外にも、フラットに友だちを呼ぶなんて一切無理、だめ、とわたしは前もっていい渡していた。絶対、だめ。まわりに病気がうようよしてるなんて、ごめんだわ。彼には友だちがいっぱいいた。医者の友だちもいた。どんな患者に触ってるかわからないじゃないの、とわたしはいった。バスの運転手もいた。病院の掃除夫もいた。死体安置室からまっすぐここへ? そんなの困る。
彼にはアメリカに住んでいる友人がいて、ときどき訪ねてきた。あの国で流行っている病気のことをわたしは耳にしていた。耳にしていたから、その友人には、わたしたちのアパートに絶対近づいてほしくなかった。咳ひとつで、すごい目つきでわたしに睨まれるのだ。彼は、わたしのそばでは咳さえできなくなった。我慢して、こらえて、枕を口に当ててから、やっと咳をするようになった。
冬、彼が流感にかかった。わたしは仕事場ですごく気をつけている。わたしが勤めている軍工場のオフィスは広々として大きいが、それでも、わたしは流感ということばを聞くと、あわてて有給休暇を申請して、家のなかでじっと静かにしている。なのに、彼が流感のウィルスを運んできてしまった。わたしにとっては、仕事がひとつ増えることを意味した。背なかが痛んだ。彼の流感が治ってから、家じゅうを消毒してまわった。消毒薬を家じゅうにふりまいて、半日、家を空け、戻ってから換気し、シーツ類を100℃で煮沸消毒した。夕方には、家じゅうがピカピカになり、浴室のタイルには月が映った。
テレビのミドルイースト(レバノンからの英語放送)を見て、守られて、清潔な家があって、結婚しようといってくれる男がいる。その男は、気違いじみて馬鹿げた、わたしの主義主張まで、ぜんぶ受け入れてくれている。
ある日突然、彼のあちこちが痛みだし、潰瘍が見つかった。わたしの潔癖症が原因の、それについては口にするわけにいかないのだが、いろんな病気がほかにも次々に見つかり、彼は母親のもとに帰っていき、母親のもとで最後の数か月を過ごした。はじめのうちは見舞いに行ったが、しばらくして意識がなくなると、わたしのことが分からなくなってきたので、見舞いにも行かなくなった。臨終近くになって、母親がわたしを呼びに、近所の人をよこした。息子を幽霊みたいにしてしまった所業を、仕打ちを見に来いといわれたが、行かなかったら、以来、母親はわたしのことをあちこちで喋りまわるようになって、止め処がない。(了)
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