聖地の偏愛叙情詩 / 下
Ⓒ Naeko Hatano
ぼくは廊下に出され、わけがわからないまま帰ろうとした。今ごろエラが目を覚まして、すべての謎が解けていたらいいのに、と半ば期待しながら。外に出る途中で警官に押しのけられた。手錠をかけた容疑者を引っ立てている。
「おい……ムハンマドじゃないか?」ぼくは声をかけた。「あいつ、ムハンマドですよね?」受付嬢にも確かめた。
「どこもかしこもムハンマドだらけよ」受付嬢は答えた。
手の届くところにいるうちに、ぼくはムハンマドを殺しておくべきだった。でもムハンマドが例のやつだなんて、知る由もなかった。 エラの携帯にはアラビア語のメールが大量に送られてきていた。いま思えば、ムハンマドからだ。やつこそ、エレベーターのキツネだったんだ。エラのやつ、ぼくとあいつが似てるなんてよくも言えたもんだ。正反対じゃないか!
でも、何があった? ムハンマドはあの晩、ぼくがエラの部屋を出た後に来たのか? 彼女を殺そうと? 捨てられたから? ぼくのせい? 看護師がいのちを奪う? そもそも誰がエラをERに運んだ? ぼくが疑問符の滝に打たれて佇んでいると、かの容疑者どのが、完全に自由の身となって現れた。
ぼくは警察署の正面でやつに襲いかかったりはしなかった――そこまで愚かじゃない。ぼくはやつの跡をつけ、通りを3つぐらいやりすごし、やがて小さな公園の近くまできた。「芝生の上を歩かないで」という看板が立っていたが、モンスターにはいっさいの禁止事項は眼中にないらしい。やつは歩いていって2本のロープにだらしなく括りつけられたブランコに座った。ぼくは背後から襲いかかった。
「あんただな、エラをやったのは。どんな手を使って釈放された?!」
ぼくはやつを侮りすぎていた。ムハンマドはブランコをぐんと揺らしてぼくの下半身にぶち当たってきた。
「泥棒ネコ!」やつが飛びかかってきた。「おれたちうまくいってたんだ。だれが戻ってこいと頼んだ?」
「もとはぼくの彼女だ!」ぼくは組み伏せられながら、相手に膝蹴りを食らわせた。ムハンマドは腰をまげてうずくまった。
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