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聖地の偏愛叙情詩 / 下

2

Ⓒ Naeko Hatano

「世界中が、おれたちの仲を認めてた!」ムハンマドは身を起こしてぼくの顎に拳をめり込ませる。
「世界中って? おまえとおまえのお袋さんか?」ぼくは声をつまらせながら訊いた。不格好な殴り合いが2、3続いた。互いに髪をつかみあい、もみくちゃになって、メリーゴーランドみたいに転がった。ぼくがやつに向かって唾を吐くと、それはやっかいな風に乗ってぼくの顔に命中した。袖口で顔を拭おうとした隙に、頭にもう一発食らった。やつも、ぼくと同じくらい傷ついたような顔をした。ふたりとも、息を切らせて倒れ込んだ。
「ティナがああなったのはおれのせいじゃない」ムハンマドが忌々しそうにつぶやいた。
「誰が、だって!?」
「ティナだよ。それがエラの本名だ」
「違う、そうじゃない」ぼくは痛みをこらえながら起き上がった。「それはあの娘が大人になってつけた偽名だ。生まれた時はエラだった」
「こんな言い合い、するだけ無駄だ」ムハンマドは倒れたまま言った。
「どうして釈放された」ぼくは訊いた。「あんたがエラを殺そうとしたのは明白なのに。エラに選ばれなかったことが耐えられなかったんだろ。こけんに関わるから」
ムハンマドは苦笑いした。「警察のやつらも最初はそう思ったらしい。誰もわかっちゃいない。あの娘に吐きかけられる唾すら、おれにとってはオリーブオイルのようだ。あの娘の吐息はおれのそよ風。おれは一生あの娘にぬかずいて、ラクダみたいに飲まず食わずでもかまわない」
あまりにクサすぎる台詞に、鳥肌がたった。
ムハンマドが立ち上がった。
「来いよ、それ、消毒しないと」
公園の水飲み場にたどり着くと、ぼくの額の血を洗い流した。
「ヒリヒリする」ぼくは言った。
「擦過傷だな」さすがプロだ。「おい、シャツで拭くな、雑菌が入るぞ」そう言ってやつは、ポケットから折りたたんだハンカチを取り出した。「昨日、お前が帰った後でティナがメールをくれたんだ」
「あり得ない」ぼくは言い返した。「エラはとっくに寝てたぞ」
ムハンマドはぼくの顔についた血と水とをそっと拭うと、スマホを取り出し、アラビア語で書かれたメールを見せた。
「わかるわけないだろ? アラビア語なんて」ぼくはイラついた。
「おれはヘブライ語、できるけどな」ムハンマドがバカにしたようにつぶやいた。

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