聖地の偏愛叙情詩 / 下
© Naeko Hatano
「ティナがやったんだ」ムハンマドが言った。ぼくは、え? という顔でやつを見た。「つまり、ティナははじめに自分の頭にビニール袋を被せ、拘束具で固定したあと、呼吸できる間に残りの拘束具で自分の手足をベッドに縛りつけた。死のうとして」
「バカな……」ぼくはつぶやいた。「嘘だ」
「遺書がある」ムハンマドが言った。「警察署で知った」
ぼくの忍耐もここで限界にきた。
「は!? なんでぼくだけ何も知らない? ぼくを人殺しみたいに尋問しといて? お前にだけ話したのか?」
「やつらがおれの尋問をはじめてから5分後に遺書が見つかったんだよ。アメリカ人の飼い犬が、家の居間で口から吐き出したんだそうだ。釈放の前に立ち聞きできたのはそこまでだった」
「何て書いてあった?」ぼくは叫んだ。
「おれだって知りたい」ムハンマドが言った。
日々は過ぎ、世界中が覚醒と催眠のルーティンを繰り返した。エラをのぞいて。ムハンマドは、エラがグラスゴーの基準でステージ3の評価だと教えてくれた。ぼくには、ユーロビジョンで最下位だと言われているようにしか聞こえなかった。エラの脳は死んでいるけど、心臓は動いているという。ぼくだって似たようなものだ。目は開いていても、何も見えていないのだ。
「植物状態」という診断がくだり、エラは人工呼吸器の専門施設に移送されることになった。入院費用を聞いたときは、ぼくもムハンマドも卒倒しそうになったけれど、ムハンマドがこれ以上ない妙案を思いついた。エラが目覚めるか永遠の眠りにつくまで、ムハンマドは認定看護師、ぼくはバリスタとして、それぞれ週3日無給で働くことを条件に、施設はエラを無償で収容してくれることになった。
昏睡患者を見舞う家族は、自分たちが眠らないように大量のコーヒーを必要とする。ぼくの出番というわけだ。ぼくはラテアートでみんなの潜在意識に働きかけた。例えば、カプチーノを注文した軍服の兵士には、ピースマークを描いてやった。超正統派ユダヤ教徒には三日月のマークを。アラブ人にはダビデの星を。真面目なやつらには葉っぱのマークを。昏睡患者にもとっておきのマークを描いてやった。目覚まし時計だ。受けねらいだけど。
馴染み客の中に昏睡状態の母親をもつ押し出しのいい男がいて、現役の警察官だった。男はエラの遺書のコピーをぼくとムハンマドに見せてくれた。遺書にはこう書かれていた。二重生活に疲れました、もう限界です、と。
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