聖地の偏愛叙情詩 / 中
ⒸNaeko Hatano
ああ! 辿ってきた記憶を悲鳴と共に断ち切ると、ぼくは横たわるエラにすがりついた。
「エラ、ぼくだ、モシェだよ……」ぼくはエラの冷えきった頬や肩を撫でさすり、その手をそっと引いた。毛布がずり落ちるまでその身体をゆすった。エラの着ていた患者用ガウンを無理やりはぎ取った。そして例の燃え盛るようなしげみを見つめて恍惚となった。ぼくと別れてから染めたんだろう。いやもしかしたら、彼女の内からひとりでににじみ出た色なのかもしれない。
「おい、誰だおまえ?」
ぼくは大慌てでエラの身体を覆い隠すと、しどろもどろで白い看護師服の男に言った。
「や、やあ――」
「気安く話しかけるな」と男が言った。看護師らしからぬ態度だ。
ぼくはやつの名札に目を走らせた。「ムハンマドか。よろしく。ぼくはモシェ」そのときのぼくは、ふたつの名がはらむ神話的で悲劇的な側面に無頓着だった。「エラに会いに来たんだ」
「おまえ、彼女の何なんだ?」
ぼくはどう言えば良かったんだろう。下僕か、主人か、選ばれし者か……
「おまえ、下の階のコーヒーショップのやつだな? ここで何してる?」
「エラに会いに来ただけだ。あんたこそ、そんな目で見るなよ。ぼくは彼女の知り合いだ!」
「証拠は?」やつが眉をひそめた。
「ムハンマド、あんた刑事か?」ぼくは訊いた。「尋問はよせよ。このコーヒーが目に入らないか? ハチミツ入りのカフェラテなんて、彼女のほかに誰も飲まない。大目に見てくれよ。プライベートなことなんだ。こんなエラを見てるだけで辛いってのに」
自分の周りで何かごたついているのは、昏睡患者であろうが聴こえているという。それがぼくにとっての救いだった。ぼくは愛するエラの耳元に口を寄せ、ささやくように歌い始めた。「たとえ焔に包まれていようとも、ぼくにはほかの土地はない……」
「いいかげんにしろ」
ぼくはムハンマドに負けじと続けた。「からだは痛み、こころは渇いても……」
「モシェ……もうやめろ」
「あきらめはしない、忘れはしない、きみの耳元で歌い続ける、いつかその目が開くまで」
「警備員!」ムハンマドが叫んだ。
ぼくがどついたら、ムハンマドもやり返してきた。眠っていても大の男ふたりを争わせるエラは、本当に大した女だ。
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