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聖地の偏愛叙事詩 / 上

3

ⒸNaeko Hatano

わたしのこと知ってるの、と彼女。名前も知らない、とぼく。エラよ、あなたは? と彼女。モシェ、とぼく。いい名前ね、と彼女。
エラはところどころ壁紙の剥がれたワンルームに住んでいた。ひとり暮らし? ぼくが尋ねると、エラは答えるかわりにぼくのまつげにキスした。ながいこと。まるでぼくを王に任命する儀式みたいだった。
ぼくは近所でハヌキヤを見つけた。ふたり暮らしの記念に! とぼくが叫ぶと、エラにこう訂正された。それはメノラよ、と〔註2〕。そんなところもかわいかった。ぼくらは猫の額ほどのベランダでバーベキューをやり、煙は空へと立ち上った。
一緒に暮らすうち、エラがひどい気分屋なのがわかった。しかもかなりの汗っかきだった。小麦色の肌からはときおり湯気が立ち上っているように見えた。彼女のあそこはしょっぱかった。反対に、舌は氷のように冷たかった。今しがたアイスキャンディでも食べたみたいに。
はじめの1週間、エラはとても尽くしてくれたが、それから手のひらを返したようにぼくを拒むようになった。いったいどうしたのさ、とぼくは訊いた。わたしがあなたのものだって、高を括られるのが嫌なの。ぼくはわらった。そんなことないさ、ちゃんとわきまえてるよ。
はじめて女の子からくらう平手打ちは、ファーストキスくらいこころに深く焼きつくものだ。びくついたり、気色ばんだり、やり返したりするやつもいるだろうが、ぼくにはエラのそんな仕打ちをちゃんと受けとめた。正真正銘の、本気のびんたを。エラの瞳は、ぼくを叩く手のひらとは違う気持ちを物語っていた。もう一発、とぼくがお願いすると、こんどは鼓膜が破れた。おいで、平気だから、ぼくを叩きのめして、とぼくは言った。エラは血がにじむほどぼくを引っ掻いて、ささやいた。わたしの足を洗って、その水を飲みなさい。ぼくは従った。ふたりして、大人向けの「海と陸ゲーム」〔註3〕をつくり上げたわけだ。シェケル〔註4〕の精神科医が見たらこう言っただろう――彼女がサドというより、きみがマゾなんだ。きみは暴力に慣れ過ぎてしまったんだ、父親の虐待のせいでね、と。

註2:どちらもユダヤ教徒の使う燭台。ハヌキヤは8本、メノラは7本に枝別れしている
註3:日本の旗揚げゲームに似たイスラエルの子どもの遊び
註4:精神疾患や発達障害を持つ人々に多方面のサポートを提供しているイスラエルのNPO法人

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