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聖地の偏愛叙事詩 / 上

4

ⒸNaeko Hatano

しばらく何の変哲もない日々が過ぎたある日、エラが言った。「モシェ、わたし妊娠したの。いま八週めか九週目よ……」
心臓の鼓動が八つか九つくらい止まった。
「親父に似た子が生まれたりしたら」ぼくは言った、「どうやってもその子を愛せないよ」
「似たりしないわ」
変な色に髪を染めたおせっかいな産婦人科医が言った。「おめでとうございます。今どきの若者は、ひとり生まれると満足しちゃうけど、子どもには兄弟姉妹が必要ですからね」
「カインとアベルを知ってます?」ぼくはそう訊きながら、エラとふたり診察室に入った。

「愛してるよ」リカバリールームで、ぼくはエラにささやいた。
「あんたは敵よ」エラが言った。麻酔でぼーっとしていても、相変わらず手厳しい。
「一緒に乗り越えようよ」ぼくはエラを懐柔しようと必死だった。
「神殿は崩壊したの」
「神殿崩壊は外国人労働者と流血のせいだ」ぼくは哲学者になった。
「でしょうね」エラの表情は暗かった。
ぼくはエラをなんとか慰めようとやっきだった。そんなとき、彼女がガリラヤのロン毛の軽いジャンキーとネットでいい感じになっていたことがわかった。ぼくから逃げ出したくて、救世主を見つけたってわけか、え? ぼくが蔑みの言葉を投げつけると、彼女は賢明にもこう答えた――お好きに。
例のジャンキーは数にして12通目のこんなメールを最後に、エラの前から姿を消した。「いまはまだ、きみのときではない。ときが来たらわたしは戻る」。哲学かぶれの自意識過剰野郎だ。エラはやつのことを忘れたけど、ドアにノックの音がするたび、ぼくはやつかと思って身構えた。
ぼくらは神話の世界に生きようとした。まるで世界の中心はぼくらだというように。ところが、ふたりの部屋に強盗が押し入って、何もかも――例のハヌキヤ(メノラ)までも盗られちまい、溜まりに溜まった鬱憤がついに爆発した。罵りと誹りの応酬はつばの吐き合いに取って代わり、ぼくの鼻にエラの肘鉄がさく裂した。鼻が折れて二倍に腫れ上がり、ひん曲がって戻らなくなった。そもそもエラを好きになったことが、心底忌々しかった。ぼくの人生で二つ目の家庭も崩壊しちまった。また次のを建てあげようと思えるようになるまで、途方もない時間がかかるだろう。翌朝ぼくは、ベングリオン空港行きのタクシーに乗った。直近で空席のあるフライトは? とぼくが尋ねると、係員が答えた。ローマ行きです。ぼくは言った。ビバ、ローマ。

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