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不思議な子ども(神童) 上

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🄫Yuki Hashimoto

 僕は何も考えずになかに入り、受付に行った。受付はすぐ僕をわかってくれ、ピチピチした感じのいい看護師が長い廊下を、とある室まで案内してくれた。室には鍵がかかっていて、看護師は白いズボンのファスナーについている金色の鎖についた鍵で開けた。
 全部脱いで裸になったら、後ろで紐結びする手術着を着て、ベッドの上で静かに待っていてください、と看護師にいわれた。何か必要なものは、と看護師が出ていきがてらに訊き、僕は、ありません、といった。洋服を脱いで白い手術着に着替えた。背中の紐を結ぼうとずいぶん苦戦したがあきらめ、ベッドに横になって室を観察した。恐ろしげなものは何もない。濃い青色の壁に濃い青色のカーテン、新品の鉄製のベッドが何台か。室の隅のベッドに男が1人、眠っているのか、意識がないのか、そのベッド以外は全部空いていた。
 また、看護師が入ってきた。
 「いま、お越しでよかったです。私ども、最高の気分ですから成功間違いなしです」
 隅のベッドの男は、気分がよくなかったときの犠牲者なのか聞きたかったが、やめた。なぜだかわからない。
 看護師はしゃべりながら、尻に大きな針を刺した。
 「大丈夫です。麻酔注射ですから」
 たしかに、たちまち意識が朦朧としてきて、室がさっきとは違ったふうに見えだした。あちこちで、ものが動いた。意識がぼんやりとうすれて、麻痺していった。
 それでも僕は、介護士が2人、スキンヘッドなのか白緑色の帽子をかぶっているのかはっきりしないが入ってきて、意志をなくした僕の身体を狭い担架にのせるのをしっかり見届けた。担架から足がとびだした格好のまま廊下をずっと運ばれ、明るい室に入った。医師が1人、僕の肩を叩いた。
 「ご心配なく。超優秀な腕に任してください」といい、それから、「いまは、いやはや最高の気分ですから。いったいに、このところ並でない出来なんですよ」とつけ加えた。
 麻酔──以前、どこかで見かけたような老人が腕をとって静脈をさがし、「立派な血管だ。どうして、なかなかのものだ」といいながら針を刺し込み、針に連結したゴム管に麻酔薬を注いだ。
 手術時間はどのくらいか訊いたが、返事を聞くことはかなわなかった。どのくらいたったのだろう。目が醒めると包帯ごしに、室の隅にいた男が消えているのがわかり、看護師たちが慌ただしく出入りしていた。全身がギプスに埋まっていて、手足の感覚がなかった。こんな姿を見てもうろたえるような近親者がいないことに、僕はほっとした。
 麻酔薬で朦朧としているせいか、気分はどうか、と看護師に気遣いの言葉をかけられても返事できなかった。こんなことは、いままでなかった。手術前には、記憶に欠損が生じたり、性格が急に変わるんじゃないかと不安だったが、そういうことはなかった。僕は、いつもどおりの僕だった。医者が入ってきて、ゆっくり休むことです、それに、牛乳をいっぱい飲みなさい、といった。僕は、どのくらいこうしていなくちゃいけないのか訊いた。ちょっと声の調子が変だった。医者は、すべてはあなた次第です、といい、それ以上は説明しないで出ていった。手術はどうだったのか、術後の所感はどうか、と僕が後ろから声をかけると、返事が大声で返ってきた。
 「いいですよ。頭部を見事に調整しました」
 その通りであることを、僕は願った。ほとんど静脈経由で栄養を摂り、それほど悪くない状態を維持した。しばらくして、ギプスをはずすことになった。すみやかに儀式が執り行われ、頭の包帯が最後にとれると、乾杯になった。僕のグラスは空だった。退院になり、どのくらいここにいたのか訊ねると、半年、と答えが返ってきた。1日当たりかなり高額な治療費規定に従って、請求書通りに6か月分を払い、タクシーを頼んだ。例の看護師が、とてもすてきになったわ、といった。包帯をはずす儀式がすんでも、僕はまだ鏡を見たり顔をさわってみる勇気がなかったので、返事のしようがなかった。タクシーが来たので、僕は白い鞄を持って乗りこみ、まっすぐ空港に行ってくれ、といった。

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不思議な子ども(神童) 上

不思議な子ども(神童) 上

オルリ・カステル=ブルーム

著者:

母袋夏生

翻訳:

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