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不思議な子ども(神童) 下

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🄫Yuki Hashimoto

 ついに、僕は彼に会いにいった。「恐れ入りますが」って、声をかけたんだよ。ナグリスは立ち止まって振りむいた。げっそり痩せこけて、目は落ちくぼみ、重大な恐ろしい秘密を抱え込んだような顔をしていた。挨拶して、僕は手をさしだした。
 ヨアヒム・ゴレンです。ご尊名は存じあげております。
 彼は差しだされた手を無視して、いった。もう、何もいうことはない。それに、間違っていたのもわかってる。わたしが辞めていなければ、日本がミサイルを使ったかどうかも確信がもてない。結局は、国が少しばかり儲けただけのことだ。悪いかな? そういって、僕をまっすぐ見つめた。先週、ソ連はアメリカにミサイルを売らなかったか? 売ったろう。アメリカ大統領がその日のうちにボタンを押すだろうと、みんながいった。1週間過ぎた。空に飛行機が見えるかね? そういって、澄んだ空にむかって両手を振った。
 ソ連はアメリカに核ミサイルを売ったことは一度もありませんし、この先もありません。僕はそういいながら、ナグリスが憐れだった。私は勇気あるご決断に大いに敬意を払っておりますし、閣下を尊敬しております。閣下を歴史上の人物として大々的に取りあげたいと思っております。正義に光を当てるべきです。どうか、ご都合のよろしい時間と場所をお決めになって、インタビューさせてください。全世界で読まれる記事に仕上げることをお約束いたします。ご尊名が大きな雑誌の表紙を飾ります。ノーベル平和賞の可能性も大です。
 ナグリスは黙り込んだ。やっと少し話を引きだしたが、すっかり惚けている。第一線の記者たちの話でわかっていたことだから、僕はひるまなかった。押しに押し、説得しているうちに、彼は足を速めて人混みに紛れてしまった。僕は追いかけて、やっと捕まえた。ナグリスは公園のベンチに腰掛けて、ポケットから取り出した袋からパン屑を掴みだしては、太った鳩に投げていた。僕はその横に腰をおろした。
 なあ、どうなるのかな。ナグリスはかぼそい声でいい、鳩の1羽をじっと見つめた。何も欲しくないっていっただろう。そっと、死なせてくれ。ほっといてくれ……。
 僕はそのまましばらくナグリスのそばにいた。ナグリスは知らんぷりをして鳩に餌をやっている。とうとう僕はあきらめて、レコードを買いに行った。その日の朝からドボルザークのレコードが欲しくてたまらなかったんだ。以前、その近くの小路を歩いていたら、ある店から騒々しい音楽が響いていた。で、記憶をたぐって、その店に行ってみることにした。僕は音楽が趣味で、家にはレコードが450枚ある。店に入ると、残念なことに八百屋に変わっていた。店主は太い眉毛の男だった。太い眉から、すぐナグリスの息子だとわかった。店の上に目立つ看板があった。『レコード』。だが、店内では野菜を売っていた。
 そのときはまだ、特に変な感じはなかった。父親のナグリスのせいで落胆していたとはいえ、まだ余裕があった。息子のナグリスに、店が変わった理由を訊いた。
 頑固そうな顔で、息子ナグリスは僕の顔に唾を吐きかけた。クソッ。
 唖然として、僕は唾を拭いた。記者としちゃ、唾を吐き返すわけにはいかない。

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不思議な子ども(神童) 下

不思議な子ども(神童) 下

オルリ・カステル=ブルーム

著者:

母袋夏生

翻訳:

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